量子コンピューターがもたらす革新と、デジタル社会の新たな懸念
今回は、暗号化されているから大丈夫だと思っている大切な情報が、将来の解読を見越して、すでに集められているかもしれないという話題について、お話ししたいと思います。
従来のコンピューターとは全く異なる原理で動く次世代の計算機「量子コンピューター」。もしこれが実用化されれば、私たちの世界は劇的に変わると期待されています。例えば、新薬の開発スピードが飛躍的に上がったり、物流の最適化が瞬時に行われたり、あるいは気象予測の精度が格段に向上したりと、その恩恵は計り知れません。
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「0であり1でもある」重ね合わせが、計算の常識を塗り替える
従来のコンピューターは、情報を「0」か「1」のどちらかとして扱います。スイッチが入っているか、切れているか、という非常に分かりやすい二択の世界です。計算とは、その「0」と「1」を大量に並べて、順番に処理していく作業だと考えることができます。
一方、量子コンピューターで使われる量子ビットは、少し性質が異なります。量子ビットは、「0」でもあり「1」でもある、という状態を同時に持つことができます。これを重ね合わせと呼びます。例えるなら、コインが表か裏か決まっている状態ではなく、空中で回転している途中のような状態を扱っている、と考えるとイメージしやすいかもしれません。
このあいまいな状態をたくさん組み合わせることで、量子コンピューターは、一つの答えを順番に探すのではなく、考えられる選択肢をまとめて見渡すような計算ができます。迷路を一つずつ試しながら進むのではなく、上から全体を眺めて、道筋を探すようなイメージに近いかもしれません。
この結果、量子コンピューターは従来のコンピューターとは違った力を発揮すると考えられています。そのため、単に「計算が速い」というよりも、「計算の進め方が異なる」と説明されることがあります。
忍び寄る脅威
ここで重要なのは、このような量子コンピューターが実用化されれば、新しい価値を生み出すだけでなく、現代のデジタル社会の根幹を揺るがす大きな課題も連れてくるという点です。その一つが「暗号」の問題です。現在、私たちがインターネットで買い物をする時や、メッセージをやり取りする際に使われている暗号技術は、今のコンピューターでは解くのに何千年もかかるような数学的な難しさに守られています。ところが、十分に高性能な量子コンピューターが登場すると、これらの暗号が驚くほど短時間で破られてしまう可能性があるのです。
この危機を重く受け止め、非常に具体的なアクションを呼びかけているのがオーストラリア政府です。オーストラリア信号局(ASD)は、2025年9月に更新したガイドラインの中で、「量子コンピューターが実用化される前に、暗号をすべて入れ替えましょう。その計画は今すぐ始めるべきです」という非常に強いメッセージを発信しました。
まず理解しておくべきなのは、現在使用されている暗号を破ることができるレベルの量子コンピューターは、まだ実用化されていないという事実です。現在の量子コンピューターは実験段階にあり、研究者たちの間でも、そのような強力な量子コンピューターがいつ登場するのかについては意見が分かれています。楽観的な予測では10年以内、慎重な見方では20年から30年後、あるいはそれ以上かかるという声もあります。
ではなぜ、まだ実用化されていない未来の技術に対して、今からそれほどまでに急いで対策をしなければならないのでしょうか。そこには、サイバーセキュリティの世界で警戒されている「Harvest Now, Decrypt Later」——直訳すれば「今収穫し、後で解読する」という、恐ろしい攻撃の考え方が関わっています。
攻撃者は、今は解読できない暗号化されたデータをとりあえず盗み出し、保管しておきます。そして数年後、あるいは数十年後に強力な量子コンピューターが完成した時点で、そのデータを解読するという戦略です。つまり「今は安全だから大丈夫」という考え方が、将来にわたって通用するとは限らない、ということです。
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10年後も守るべき「機密情報」のリスク
例えば、ある国の国防に関する機密情報や、企業の長期的な知的財産、あるいは個人の生涯に関わる医療記録などを想像してみてください。これらのデータは、10年後や20年後に中身が漏洩したとしても、依然として大きなダメージを与える可能性があります。オーストラリア政府の資料によると、10年以上の長期にわたって守る必要がある「重要なデータ」については、すでに現在進行形でリスクにさらされていると考えるべきだとされています。
もし、量子コンピューターが完成するまで何も対策を講じなかったら、何が起きるのでしょうか。
私たちの日常生活に当てはめてみると、ネット利用を守っている「TLS」という通信の仕組みも、量子コンピューターの前では、いわば「鍵そのもの」を破られて無防備になってしまう恐れがあります。ネットバンキングのログイン情報が盗まれたり、やり取りしているメールの内容が書き換えられたりといったことが、国や企業のレベルで大規模に発生するかもしれません。データの「機密性」だけでなく、その情報が本物であるという証明や、途中で改ざんされていないという保証までもが、根底から崩れてしまうのです。
2030年までの完全移行を目指す「ポスト量子暗号(PQC)」へのロードマップ
こうした事態を防ぐために開発されているのが、「ポスト量子暗号」、英語の略称で「PQC」と呼ばれる技術です。
専門的な数学の話を避けて例えるなら、従来の暗号は「今の道具では壊せない鍵」によって守られている箱のようなものです。量子コンピューターは、その箱を開けるための全く新しい道具だと言えます。ポスト量子暗号は、その新しい道具を使っても簡単には開かない、別の構造の鍵を用意する試みだと考えることができます。
オーストラリア政府は、この「鍵の交換」には膨大な時間がかかることを強調しています。IT環境にあるすべてのソフトウェアやハードウェア、クラウドサービスをチェックし、どこに古い暗号が使われているかを洗い出し、新しいものに置き換えていく作業は、一朝一夕には終わりません。
そのため、具体的なタイムラインも提示されています。オーストラリア信号局の推奨によれば、2026年末までにはどのシステムをどう移行させるかという「移行計画」を完成させ、2028年末までには、まず機密性の高い重要なシステムから移行を開始。そして2030年末までには、すべての移行を完了させるべきだとしています。つまり、あと5年ほどでデジタル空間の「守り」を根本から作り直す必要があるということです。
デジタル社会の未来を守る「壮大なプロジェクト」の始まり
量子コンピューターの完成はまだ先のことかもしれませんし、正確な時期を予測するのは困難です。しかし、一度完成してしまえば、それまでに蓄積された過去のデータがすべて「丸見え」になってしまうリスクがあります。そうならないために、まだ見ぬ脅威に備えて今から「未来の守り」を固めておく。ポスト量子暗号への移行は、単なる技術的なアップデートではなく、私たちのデジタル社会の未来を守るための、非常に重要で壮大なプロジェクトなのです。
いかがでしたか?今回は、将来の解読リスクに備える「ポスト量子暗号」について調べた内容をご紹介しました。もし楽しんでいただけたなら、ぜひ高評価やチャンネル登録をお願いします。それではまた次回、お会いしましょう。
